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土屋秀夫句集『鳥の緯度』




 


土屋さんは「山河」(山本敏倖代表・松井国央名誉代表)の同人。平成29年度の山河賞を受けておられる。俳句は小沢昭一(俳号=変哲)の「水酔会」、早稲田の「西北の森」などで研鑽を積んでこられた。『鳥の緯度』は氏の第一句集(2021年11月12日、山河叢書・青磁社発行)である。


 自選句は次の10句。


  蝶生る闇にハサミを入れる時

  白地図の白い山脈鳥帰る

  蒲公英はすべての風に名を付ける

  刺青もピアスも春の愁かな

  大阪の黒鯛泥臭く古典好き

  蠅と居て見て見ぬふりの上手くなり

  おごそかな距離に並んで冷奴

  魂のところが苦い干し鰯

  美しき数列氷柱に芯はない

  折皺の通りに畳む初あかり


 小生が共感した作品は次の通り多数に及んだ。(*)印は自選と重なったもの。


012 (平成二十四年十二月十日 変哲逝く)

    折皺の通りに畳む初あかり(*)

024 蓬餅千年前のひざまくら

038 刺青もピアスも春の愁かな(*)

040 秋暑しビジネスホテルにある聖書

052 鳥帰る鳥に祖国は二つある

053 あの世との波打ち際に桜貝

064 濡れ衣を着せて形代流しけり

080 どちらからも行ける標識春の川

084 誰か来て花替えてあり墓洗う

088 立って眠る鶴を見ており不眠症

094 母の日のどうともとれる笑顔かな

102 大勢にまじってひとり卒業す

102 さわりつつさわられている春の水

106 新生姜何か思い出しかけている

108 ささくれたことばを鞣す春の雨

125 省略のできないものに猫の恋

126 涼しさや背でドアを開けナースくる

126 遠吠えの様に干されて白いシャツ

133 涼しさや手抜き加減のよい芸風

136 月光の柱で猫が爪を研ぐ

137 戦争をがまんしている冬苺

138 煮凝の底に正座の一家族

140 風船をつなぎ自由を軽くする

155 差水を忘れ銀河を吹きこぼす

163 ため息を鸚哥が真似る大暑かな

166 浜昼顔殺そうと思った人はもういない

167 生まれ来る子の名を水に書く蜻蛉


 全体的に分かり易い言葉で、しかし、句意はユニークで視点が独特である。いくつかを鑑賞しよう。


038 刺青もピアスも春の愁かな(*)

 自選句と重なったもの。刺青もピアスも肉体に傷をつけるので、日本人には違和感があるようだ。だが、多くの外国人は抵抗なく受け入れている。文化が違うので一概には言えないが、若い時に耳に穴を開けたり、肌に消せない模様を入れたりするのは、年とってものの見方が確立したとき、悔悟の念に捉われないのだろうか・・・と心配になる。父母から受け継いだ肉体に傷をつけるのは・・・などと古い観念を持ち出すのではなく、単純に、若い時の価値観がそのまま不変だと信じる根拠を持たない者の杞憂を「春の愁い」と言ったのであろう。「春の」は若い時のという意味に思えた。同感の一句。


064 濡れ衣を着せて形代流しけり

 自分の身代わりに流す「形代」に「濡れ衣」を着せた、というのは面白い。何か誤解を受けて悩んでいたのであろうか。形代が水に濡れることからの発想なのかもしれないが、深層心理に触れるようで、意外に重い句である。


108 ささくれたことばを鞣す春の雨

 冬は万物が涸れ乾燥が進む。言葉もささくれる。それを「春の雨」が「鞣す」のだと言った。感覚的によく分かる。この句集には〈102 さわりつつさわられている春の水〉のように、「春の水」や「春の雨」の質感を詠んだ句がある。納得である。長谷川櫂の〈春の水とは濡れてゐるみづのこと〉を思いだす。


133 涼しさや手抜き加減のよい芸風

 「手抜き加減のよい芸風」とはよくいえた。名人芸ともなると、熟達した緩やかな動きや間合いが、あたかも「手抜き」のように見えることがあるが、芸の極致なのである。むかしバレーの「ドン・キ・ホーテ」を観たことがある。若い踊子たちの機敏な動きの中で、主役の年配のダンサーが、ワンテンポずれて緩やかで、それはそれは実に見事な舞踏であった。


137 戦争をがまんしている冬苺

 この句は幾つかの「読み」を誘う。いずれも凄いことをいっている。「冬苺」は配合であって、苺が「戦争をがまんしている」訳ではない。二物衝撃の句として読んだ。実はこの句集に二物衝撃の句はあまり多くない。それだけに印象的であった。戦争を始めたいとウズウズしているのだが、かろうじて我慢している。人間とはそういう存在なのだ、という読み。もう一つは、どこかで今も戦争が起こっている。私たちはそれが過ぎ去るのをじっと我慢しているのだ、という読み。いずれにしても「冬苺」は平和の暗喩。


166 浜昼顔殺そうと思った人はもういない

 この句にも驚かされた。長い人生。殺そうとまでは思わなくても、嫌いな人間もいたであろう。時は流れ、何もしないうちにその人たちはいなくなっていた。でも、だから今は平穏でハッピーだ、などという句ではない。なんとは無しに無気力感を感じさせる句である。読みは「浜昼顔」で左右される。砂地に這うように沢山咲いている素朴な花。これが「向日葵や」だったら読みは違ってくる。


 楽しませて戴きました。多謝です。

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