著者高岡修さんは現代俳句評論賞、現代俳句協会賞などを受賞した俳人で、詩人でもある。該句集は第九句集。2022年12月15日、有限会社ジャプラン発行。
冒頭の句である。
008 食卓の明かるい死体と朝のミルク
出鼻から驚かされる。一筋縄には解けない句である。テキストを睨みそこから映像を湧き立たせようとするが、埒が明かない。
次の句は
008 名前失なう朝の鏡の殺意(スミレ)を凪ぎ
全く歯が立たない。難解句でも茫洋とした感覚的な衝撃を与えてくれる作品ならよいのだが、この句はそうはいかない。意味は分からないが、ほのかに胸に働いてくる作品なら楽しめるのだが、お手上げである。何かを感じさせてくれるまで、放っておこうと思う。
余談だが、筑紫磐井の言を思い出す。彼は難解俳句を書く人たちの名前を上げ、「面白いことに、俳人たちと違って詩人たちが優れた現代詩人として認めるのはこういう作家たちなのだ。詩人の視覚域では〈分かりやすい〉というだけでは何の価値も感じられない。言葉がきしみあい、悲鳴を上げ、最後に救済が示されることによってこそ、言語に携わる者としての価値があることになる」と言っていた。傍線のところが大事なのだが……。
次に移る。
009 不燃ゴミに分けて孤独と春昼と
すこし分かりそうだ。生活臭が感じ取れるが、何処に詩情を見出せばよいのだろうか。
この後、分かる句、感じる句が続々と出てきた。最初の二句のショックが大きかった反動で、つぎつぎと楽になってきた。
012 紋白蝶自を暗黒と思いつつ
私は、最初「自」を「白」と誤読していた。
014 虫ピンの慄(ふる)えを死蝶は忘れえず
019 秋千を漕いでは千の秋揺らす
秋千が「しゅうせん=鞦韆」であることに気が付けば、易しい句である。なぜ「ぶらんこ」が春の季語なのかについて、私は従来から抵抗を感じていた。
020 河口にてふと振り返る春の水
振り返るのは作者ではなく、はるばる流れてきた「水」なのである。そう思うとこの句、妙に味が深まる。私としては、春でなくても、秋でもいいと思っている。
022 一茎の斬首へ花瓶におい立つ
023 遠足に行きて帰らぬ遠い足
若干、言葉斡旋の末に成った句のように思える。
032 鳥籠で飼う春愁もあり鳴ける
033 春雷の振り向きざまの眼と合えり
「春雷の」の「の」の働きが微妙。攝津幸彦はよくこのような「の」の使い方をしていたように思う。
041 生は死の擬態と思うカタツムリ
043 水よりもぐっしょりと濡れ水中花
045 捨てられた縄が憤怒の姿態とる
これら三句は奇しくもモノの状態を写生的に書いた。云い得て妙。
046 盲しいるもあらむ眼を灼く千の向日葵
049 蜘蛛の囲が空を絡めて悲しがる
051 木下闇より濃き闇の君が来る
052 水刑の水を出られず水すまし
055 誰もが蟻だれしもが蟻地獄
058 激情にもっとも遠いくすり指
「くすり指」の特異な存在、役割を思わせる。
060 夕顔の顔の剥落しきりなる
060 手花火が手の淋しさを照らし出す
これは伝統俳人作かと思わせる。高岡さんの句域の広さを感じさせてくれた。
061 人の世の闇におののく初螢
「初螢」ならかくもありなむ。
070 頬杖をつかれてあてどなき窓辺
「窓辺」が「あてどなく」思うわけがないから、窓辺にすわっているヒトが主体なのだろう。相手に「頬杖をつかれて」しまったのだ。会話が弾まないアンニュイな雰囲気。
072 何を消しに行方不明の消しゴムは
074 時計屋の時間が液化する時刻
「ダリ」の絵のような? いや、それとも違う。時計屋だから時計がたくさんあって、「液化」だから、みな勝手な時刻を指しているのだろうか。結構難解。
076 転生へ巻きついてゆく蔦紅葉
080 みんな淋しいんだよね忘れ潮
084 西空の色町あたりが騒がしい
088 靴を脱ぐ銀河の岸と思いつつ
093 肉欲の世の無きごとき雪の景
095 吹雪きいる場所のひとつに繭の中
096 筆圧が強いね空の描く鷹
この「の」の使い方も微妙。それで妙な味が出た。
101 枯葉舞う下くちびるを嚙みしめて
素直な句と見たが、どうだろうか?
102 落ちてなお浮遊感に酔う雪椿
105 薄氷(うすらい)が薄わらいして溶けはじめ
頭韻を踏んだ。
109 屈葬がいいな敗北の膝を抱き
109 流木の遠まなざしを集め焚く
気が付いたらこの二句、無季だった(109は冬の季感があるが)。読み返したら、この句には無季句が多くあった。全く気にしないで読んできた。
句集の出だしは難解だったが、読むほどに分る句があって、しかも沢山あって、楽しむことができた。有難う御座いました。
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